第8回:冷たい空気を吸うだけの、タンパク質

サンティアゴ巡礼。それはキリスト教三大聖地の一つ「サンティアゴ・コンポステーラ」の大聖堂を最終地点とし、敬虔なクリスチャンが自身の信仰と向き合うために、仕事を捨て、日常生活からも離れて、歩いていくもの。1200年の歴史を持つが、現在はクリスチャンだけでなく、世界中の旅愛好家や人生に悩む人々が、こぞってこの道を歩く。
この連載では、そんな巡礼を「大学生最後の旅行」と題して訪れたまつながが、膝を痛めたり粗食に魅了されたり、はたまた24歳なりの悟りの一部を開く顛末を描く。(毎週金曜更新)

4日目を迎えた。膝の痛みや筋肉痛、マメが消滅していることを願いながらベッドから立ち上がる。やはり、変わらず痛い。洗顔や歯磨き、着替えなどを済ませたあと、昨日と引き続き、膝にテーピングを施す。足の裏にも、マメがこれ以上増えないように、念をこめてワセリンを塗り込む。足元の衝撃を和らげるため、靴下も2枚ばきにした。

朝ごはんを食べ、午前9時、ホステルをあとにした。今日の天気は曇り。ジャケットを着ないといけない程度には肌寒いが、インナーダウンまでは必要なさそうだ。

巡礼中、日本ではみかけない特大犬をあちこちで見かける。この地域で見かける特大犬は、日本の成人男性よりも体格が大きく、もはや獣の王、といっても大袈裟ではないくらいの大きさと獰猛さを備える。こんなものに襲われたら、命を落とすのは想像にかたくなかった。

そういえば、昨日の巡礼中、小さな集落の家が飼っているらしい、柵越しの特大犬の横を通ると、犬がとんでもなく大きな鳴き声で威嚇した。

おおう、これは迫力満点だ。おもむろにカメラの電源を入れ、写真を撮った。しかし、特大犬は私がシャッターを切った音に興奮してしまったらしく、柵を飛び越えそうな勢いで襲いかかろうとした。やってしまった。つい出来心で写真なんて撮るものではなかった。

柵のおかげで襲われることはないのに、恐怖のあまり走り出す。が、意識になかった膝とマメが悲鳴をあげた。ああ、走れない。もし、柵がなかったら、私はあの獣に、食い尽くされるところだった。一緒にいた友人は、数十メートル先まで走っていってしまった。もし、あの獣が追いかけたら、きっと、友人だけが助かったのかもしれない。

昨日の反省を踏まえ、今日は犬を見かけても写真を撮らないよう気をつけた。

町を出て、石や枝が散らかった泥道を歩いていく。膝を曲げられないので、股関節を大きく動かす。だが、少し時間が経っただけでも、股関節も痛み出した。こんなとき、体のわずかな一部分でも負傷すると、ほかの部分に負荷がかかることを体感する。普段、日本で生活をしていたら気づかないところである。

午前11時くらいに、早めの昼ごはん。といっても、ごくごく軽い食事。この日は、行きの乗り継ぎのドバイ行きの便の機内食で出てきた、日本のSOYJOYを食べた。ドバイ行きの飛行機に乗って1週間くらい時間が経っているはずなのに、巡礼4日目まで口にしなかった自分が少しおかしく思う。

その後も、歩き続けた。

突然、帰国後の進路に対する不安が頭をよぎった。いよいよ巡礼の終わりが見えはじめた。昨日までは膝の痛みも相まって、そもそも最終目的地に着くだろうか、という心配ばかりを考えていた。とくに2日目から3日目あたり、もしかしたら自分の足でこの道を辿ることは難しいのかもしれない、という弱気と向き合ってばかりいた。同時に、「もし、この苦しみを乗り越えることができたら、たとえ日本に帰ってきても大丈夫」という楽観もほんのりあったと思う。

「そもそも目的地に着くのか」という心配の佳境が過ぎた今、帰国後の自分の進路についての不安が、波となる。打ち寄せては返す。やがて、その波は大きくなる。後頭部がじわっと熱くなる。不安になるときや怒鳴られたときなど、極度のストレスを受けたときにやってくる、炭酸水を頭から吹っ掛けられたような感覚。日本で悩んできた自分が、他人であることを信じたくなってきた。

私は、これからどうすればいいのだろうか。

そういえば、今日の明け方に、こんな夢を見た。中学生の頃の、2つ結びのセーラー服を着た自分が、体育館で集合写真を撮っている様子を、遠くから見る夢。静かだけれど、何か空想しながら、シャッターを切ろうとするカメラをじっと見ている。そんな自分を見て、「私は大人になったのか」という思いが出てきたところで、夢から覚めた。

この巡礼路は、日本とはおおよそ1万4000km離れている。日常生活とは物理的にも、精神的にも切り離されたこの空間で、私は歩いている。これまで送っていた生活や思考リズムを、半ば強引的に断絶させた。

日本にいたときの自分を、ある意味で俯瞰しているのが、今置かれた状況である。今日の夢も、もしかしたら、中学生の自分が日本にいる自分で、その様子を見ているのが今の自分なのか。これまでの自分と別の人間が、巡礼路を歩いているが故に見たのだろう。不思議な感覚に陥る。

そもそも、今巡礼路を歩いているのは自分なのだろうか。わからなくなってくる。この足を動かしているのは、一体誰なのだろうか。

たぶん、それも自分なのだと思う。いや、できるなら自分であってほしい。針で潰したマメが痛くなろうと、一歩一歩踏み出すたびに膝が痛くなろうと。今は、ただ目的に向かう、歩くだけのタンパク質だが、どうかこの物体が自分の体であってほしい。なぜなら、冷たい空気を吸う気持ちよさ、小さな草花に勇気づけられる感性、道端でみかける羊や牛に喜ぶ子供心を持っていることに、気づいたからだ。

こう思ったとき、日本にいたときの自分も、悩みを抱えたあの体を自分として認識してみても、体感してみてもいいのではないかとも思えた。この自分でないと分からない世界があるのかもしれない。だとしたら、分かってみてもいいのではないか、と。

生きていて知らない方がいい世界がある、とは言われるけれど、知っていてよかったと思えるかもしれない。冷たい空気を吸うだけのタンパク質だけど、そんな自分に、これからの進む道を託してみてもいいのかもしれない。

痛みだらけの頼りない自分の足が、ほんの少しだけ、相棒に思えるようになった。

踏み出せ、足よ。

歩け、歩け。

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