第1回:つい口にしたサンティアゴ、若さに「勢い」を伴うとはこういうことか。

サンティアゴ巡礼。それはキリスト教三大聖地の一つ「サンティアゴ・コンポステーラ」の大聖堂を最終地点とし、敬虔なクリスチャンが自身の信仰と向き合うために、仕事を捨て、日常生活からも離れて、歩いていくもの。1200年の歴史を持つが、現在はクリスチャンだけでなく、世界中の旅愛好家や人生に悩む人々が、この道を歩く。
この連載では、そんな巡礼を「大学生最後の旅行」と題して訪れたまつながが、膝を痛めたり粗食に魅了されたり、はたまた24歳なりの悟りの一部を開く顛末を描く。(毎週金曜更新)

今日の天気は、この土地にしては荒れていた。ドサっと雨が降るかと思えば、太陽が灰色の雲から顔を覗く。今は太陽の光が肌を刺激する程度には、晴れている。膝は相変わらず、一歩を踏み出すたびに痛みで崩れそうだった。膝の叫びに耐えながら、先ほどの雨に濡れた、泥だらけの地面を蹴り歩く。周りは、後ろで苦しそうに歩く友人がいるくらいで、誰ともすれ違わない。ひっそりとした、静かな道。だが、孤独感はない。

私は卒業旅行と題して、スペインのサンティアゴで100kmもの道を歩いている。旅行と言ったら遊びに思えるような響きではあるが、この道は、スペインの田園。泥濘の中を20キロ近く歩いているものだから、苦行に近い。だが、冷たく湿った空気を吸い込み、その空気が胸の奥深くで、次第に温まっていくようで、むしろ今の状況を心地よく感じる。この空気のおかげで不思議と呼吸も整う。

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巡礼が決まったのは、2023年12月末のことだった。高校以来仲良くしてもらっている友人と卒業旅行にどこか行きたいね、と、高校の最寄り駅近くのインドカレー屋で話していた。このインドカレー屋、高校の近くにあったにもかかわらず、初めてだった。

少し辛く、鼻から抜けるスパイシーな匂いが癖になる。そんなインドカレーを貪りながら、私はふと頭に浮かんだ、あの言葉を、つい発してしまった。

「サンティアゴ巡礼、ってのがあるんだけど」

その友人は、私が思った以上に食いついてきた。なにそれ、と。

「私もあまり詳しくはなくて、どこかの本にあっただけなんだけどね。スペインのサンティアゴという場所でひたすら歩く道があるらしい」

その後、サイゼリヤに移動し、そのサンティアゴ巡礼というものについて、もう少し詳しくネットで調べてみた。どうやら、キリスト教に由来するものだそうだ。毎年夏になると30万人が巡礼の道をたどり、その距離は任意ではあるが、巡礼者によっては、800kmの道のりを2ヶ月ほど歩く。もともとはクリスチャンが行く道だったそうだが、現在は全ての人に開かれ、人生のブランク期間をこの巡礼に充てる人もいれば、旅行がてら訪れる人も多いという。

そういえば、私が読んできた本にもサンティアゴ巡礼が出てきた。なんとなくのあらすじは、「就職活動がうまく行かず、人生に思い悩んだ大学生の主人公が、大学の夏休みを使って巡礼の旅に出る」だっだような気がする。確か、主人公は、その旅で何かを掴んだんだっけ。

この卒業旅行を計画した当時から、私自身も広義の意味では人生について、狭義の意味では4月以降の進路について思い悩んでいた。13歳から嫌ったつけが回ったのかわからないが、大学生の4年間、散々といっていいくらい私を苦しめた「数学」という学問から解放され、晴れて卒業がほぼ確実に決まっていた。しかし、その後の進路が未だ定まらないまま、将来に対する漠然とした不安を抱えていた。漠然というより、就職という道に行くのか、「書く」という仕事を、自分の名前で続けるためにもがき苦しむのか。この2択のどちらを選べば良いのか(最適解なのか)はっきりしなかった。

あの本の主人公のように、サンティアゴにいけば私も、何か見つかるのかもしれない。少なくとも、はっきりするような、何らかの出来事が起こってくれるのではないか。本来は、学生最後の大きな旅行として、単に住む場所とは違う都市で観光する楽しさを優先するものを、修行に近い行為を行おうとしているのだから、多少は何かあってもいいのではないか。

友人が食いついてきたことをいいことに、半ば強引に、私はこのサンティアゴ巡礼に赴くことを決めた。

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