第10回:この道でよかったと思う。

サンティアゴ巡礼。それはキリスト教三大聖地の一つ「サンティアゴ・コンポステーラ」の大聖堂を最終地点とし、敬虔なクリスチャンが自身の信仰と向き合うために、仕事を捨て、日常生活からも離れて、歩いていくもの。1200年の歴史を持つが、現在はクリスチャンだけでなく、世界中の旅愛好家や人生に悩む人々が、こぞってこの道を歩く。
この連載では、そんな巡礼を「大学生最後の旅行」と題して訪れたまつながが、膝を痛めたり粗食に魅了されたり、はたまた24歳なりの悟りの一部を開く顛末を描く。(金曜更新)

5日目を迎えた。

朝は天気がかなり荒れていて、雨も横殴りだった。風も強い。

朝8時30分。泊まったホステルのプランに付いていた、別の場所にあるカフェに移動し、朝ごはんを食べた。

フルーツとパン、ヨーグルトという、ごくごくシンプルなもの。朝ごはんをさっさと済ませたかったところだったが、いまだに雨が強い。カフェの朝の営業時間が終わる9時半ギリギリまで粘った。ウエイターのお兄さんが少し苛立たせながら私たちのお皿を片付け始めたところで、カフェを出た。

その後、別のカフェに移動し、お昼になるまで雨の様子をみることにした。もし相変わらず雨が激しかったら、歩くのは諦めて、バスに乗ることにしよう。友人とそう口約束に似たものを交わした。コーヒーを頼む。

お昼、雨が少し落ち着いたため、出発することに。日本から持ってきたレインコートが役に立つ時だ。レインコート上下を着用した。

履いているウィンターブーツを泥まみれにしながら、ひたすら歩く。雨は大粒。だけど、自生する草花はみずみずしい緑に蘇っているようだった。おそらく、この地域では珍しく恵みの雨だったのかもしれない。

歩く。歩く。

途中、連れの友人が精神的な疲れを訴えてきた。今回の巡礼には、高校時代から仲良くさせてもらっている友人と一緒で、普段、その友人はあまり暗い顔をせずあっけらかんと過ごしている様子しか見ることがなかった。驚いた。友人にとって、この5日目ではじめて、巡礼の厳しさを感じたようだった。

そして、友人が催してきたらしく、トイレを探した。途中にすれ違った市役所職員らしきお兄ちゃんに、どこにあるのかと尋ねたところ、「近くにレストランがある」と言われた。いや、そもそもこの季節にレストランというのは営業していないのではないか。少し疑った。

お兄ちゃんは「ブエン、カミーノ」と笑いながら手を振って、私たちを見送ってくれた。その後、当然歩いてもレストランを見かけることがなかった。

また、すれ違った家におじさんがドアを開けて出てきたため、藁にもすがる思いで聞いた。おじさんの自宅トイレを貸してくれないかと。Google翻訳を使った。おじさんは残念そうに首を振って、「No」と言った。

私はあのお兄さんと、おじさんに苛立ちを覚えた。いや、今考えると、二人とも当然の態度、むしろ見も知らぬアジア人女性に対して、相当優しい対応をしてくれたのだろう。そのときの私は、多分だが、心が狭くなっていったと。

疲れを訴える友人が切迫していることを、彼らは知らない。そのことに対し、なおさら、苛立ちを大きくしたのかもしれない。

私は、友人とともに、持っていった携帯用トイレで、用を足すことにした。

その後も、今日の目的地を目指して歩いた。

途中、すれ違ったほかの巡礼者は1組くらいだった。きっと、昨日まですれ違った巡礼者はすでにとうの昔に、彼らの目的地についているだろう。改めて、自分たちの足の遅さを感じる。相変わらず、足が痛い。潰れたマメにこれ以上刺激を与えないように気を遣って歩いていたせいか、膝や股関節が痛い。この痛みに耐えながら、歩いた。歩いた。

午後2時ごろ、空が晴れてきた。雨粒を乗せた草たちがキラキラと輝く。雨のおかげで、これまで歩いた中で、空気はもっとも澄んでいるように思えた。湿気たっぷりの、目に見えない粒子となった水が混ざった空気を吸う。そして、吐く。

自分の細胞が少しずつ、蘇っていく感覚を覚えた。

ーー

この巡礼は、体格の良さがものを言う。体格が大きければ大きいほど、前に進む力は大きく、もっとも早くゴールすることができる。私はアジアの島国から来た女である。早くゴールをしようと躍起になったって、自分の体力にも限界がある。

「そうだ、私は早くゴールすることができない」

私の潜在に、諦念が生まれたような気がする。字面通りの単純な諦め、と言うよりかは、もう少しクールな意味を含む“諦め”だ。どんなに早く綺麗なゴールをしたいと夢見たところで、私には無理がある。だが、ゴールまでの速度が早ければ早いほどいいというのは、誰が決めたのだろうか。

多分、“早さ”を夢見た私だけだったのかもしれない。

多分だけれど、ゴールさえすれば、「ゴールした」というそのことのみが記憶に残ると思う。だったら、どんなに早く行こうが、遅く行こうが、たまに自然の厳しさや優しさを感じながら、足の痛みに耐えながら、ただひたすら歩けば、それでいいのである。遅く行くからこそ、きっと、植物の葉についた、きらきらと光る雨の美しさに気づけたのかもしれない。空気の粒を感じながら呼吸ができたのかもしれない。

遅くとも、歩み続けた、この道でよかった。たぶん、よかった。

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